カテゴリ:史跡・古墳( 6 )

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 特別拝観は、素屋根(工事現場)内の見学通路を巡り、外側から御本殿の大屋根を間近でご覧戴くものです。雨天でも拝観のご案内をしております。
 現在、御本殿は素屋根(御本殿を囲む巨大な覆い)に包まれており、外からはその壮大な御本殿の佇まいを拝する事が出来ませんが、昨年より『平成の大遷宮』に向けた修理工事が本格的に始まり、御本殿の檜皮はすべて撤去され、10月頃より桧皮の葺替作業に入る予定です。
 桧皮(ひはだ)とは桧の立木から表皮を薄く剥いだもので、一般的には2尺5寸(約75㎝)の長さに切りそろえて使用いたします。古来より木造建築の最高の屋根材として格式の高い施設や社寺など重要な建物に用いられてきました。
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 出雲大社の御本殿大屋根の面積は約180坪。軒先の檜皮は厚さ約1メートルにも及び、この大屋根には約64万枚という膨大な量の檜皮が用いられます。この桧皮を竹の釘で張り合わせて行きます。何万本という竹の釘がうち込まれて行きます。この壮大な歴史的工事を目のあたりにするチャンスをお見逃しなく。(三枚のカラー写真は解体中のカット、鰹木の取り外し、桧皮はがし、竹釘の様子。)
お問合わせ先
出雲大社社務所(8:30〜17:00)
〒699-0701 島根県出雲市大社町杵築東195番地   
TEL: 0853-53-3100  FAX: 0853-53-2515
出雲大社HP
http://www.izumooyashiro.or.jp/haikan22.html

 住んでいる町をを散歩すると、色々な記念碑、庚申塚、慰霊碑等などを見つける事が出来る古い町です。数年以前に、横浜の市長さんが土建屋さんのバックアップもあり、あちらこちらに祈念碑らしき代物をそれこそ乱立させました。
 今回取り上げた碑は、そういった行政主導の記念的な代物と異なり、個人の方が家族の記憶、あるいは家の記録として建立されている面影を感じます。少し意味が違いますが、一里塚、庚申塚は旅の道程として設置されているので、国道や旧道の道ばたに良く見かけます。
 ちなみに米国の場合は、マイルストーンとして国境や町境にあるようです。
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この恐竜の化石を見た時に感じた事は、何処かで見たなという感覚でした。そうそう、最近まで横浜駅近くの某デパートの美術館で開催されていた、著名陶芸家の作品に雰囲気が似た器があったような気がします。形の崩し方や、土のひび割れなどが相まってオブジェのような、器のような不思議な形ですね。
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米西部ユタ州の砂漠地帯にある約1億8500万年前(ジュラ紀初期)の地層から、草食恐竜の胴体や脚の化石が見つかり、新属新種に分類された。先住民の伝説から「セイタード・ルエサイ」と名付けられたこの恐竜は、ジュラ紀後期に出現するブラキオサウルスのような巨大草食恐竜の遠い祖先に当たるという。

※ユタ大学自然史博物館などの研究チームが24日、米オンライン科学誌プロス・ワンに発表。
南アフリカの洞穴から、約6万年前の駝鳥の卵の殻にに文様が刻まれているのが発見され、英仏などの研究者が1日付の米科学アカデミー広報で発表した。
卵の破片は270個もあり、研究チームは「人間が日常的にシンボルを使っていた最も古い証拠だ」としている。
狩猟採集民だった石器時代の原住民が、食べ物や水の容器として使っていたらしい。現代の駝鳥の卵は、交配などによりより巨大化していると思われるので、当時(旧石器時代)の駝鳥の亜種との比較は難しいが、人類もそれなりに小さかったので、チョウド良い容器や食器になったのではなかろうか。
殻の破片には、平行線や、格子など抽象的な文様が彫り込まれている。文様を刻むことが文化として確立していたと考えられ、容器の持ち主を区別する目印になっていた可能性もある。彩色をしたようにも見えるが、殻のカルシュウムや蛋白質が経年または環境により変化したものだろう。
一見すると陶器の破片のように思えますが、殻の厚みが2mmもあるのであまり変りがありませんね。表面削りの作陶・作品が、これからアマチュアの世界では流行るかもしれません。
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南アフリカの洞穴で発見された駝鳥の卵の殻=米科学アカデミー提供
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 前回のブログで紹介の桜井纒向(まきむく)遺跡の南方約5kmにある、桜井茶臼山古墳(ちゃうすやま)で。国内最多の13種、81面の銅鏡が副葬されていたことがわかり、県立橿原考古学研究所が7日発表した。完全な形はなく、出土した約380点の破片から判断がなされた。(写真は銅片の一部)
 また、邪馬台国の女王・卑弥呼が、中国・三国時代の魏から贈られたとの説がある三角縁(さんかくぶち)神獣鏡1面の破片は、過去に群馬県で出土し、魏の年号「正始(せいし)元年」(240年)が入っていた鏡と一致し、同じ銅鏡であることも判明した。卑弥呼の使者が魏から帰国した年にあたる。魏の年号入り銅鏡が大和地方で見つかるのは初めて。九州、畿内の2説がある邪馬台国の所在地論争にも影響を与えることになると思われます。
 日本から出土する鏡や刀剣、土器・土偶などは、それとなく古の史実を記録し、またノスタルジックなロマンを語り続けます。
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引用・参考資料等は、橿考研付属博物館による。(写真は茶臼山古墳発掘現場)
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古墳時代前期の大規模集落遺跡として知られる纒向遺跡の第149次調査において、国内最古の事例となる木製の仮面が出土しています。
<木製仮面の特徴>
 長さ26cm、幅21.5cmで、厚さは0.6cm前後。アカガシ亜属の柾目材で作られた広鍬を転用したものであるが、鍬としてはほとんど使用されていないと推定される。鍬の刃縁側を頭、頭部側を顎としており、顎の部分が尖るような平面形態を呈している。
 口と両目の部分には穿孔が存在するが、口は鍬の柄孔をそのまま利用しており、径3.4cmの円形の精緻な穿孔がなされている。対して両目は転用時に開けられたものであり、非常に粗い穿孔となっている。両目の大きさは、縦約1.2cm、横約3.5cmである。鼻は隆起部を削って整形したもので、径0.5cmほどの鼻孔が表現されている。眉毛は線刻により表現されており、その周辺にはわずかに赤色顔料が付着していた。裏面はほぼ平坦であり、顔に覆いかぶさるように湾曲した形態ではない。
<木製仮面は、現代の能・狂言の舞台で用いられている面の原初的な遺物か>
 この木製仮面には紐孔などが見られず、実際に顔に装着して使用したものかどうかを判断することは難しい。しかしその大きさから考えると、実際に顔につけることを意図して作られた可能性が高いと言えるだろう。その場合紐などを用いず、手に持って顔を覆ったものと推定することができる。現代の能・狂言の舞台で用いられている面の原初的な遺物とも考えることができるだろう。
近辺の土坑より出土する木製品が祭祀に使用されたものであると考えるならば、木製仮面もまた、鎌や彩色された盾とともに祭祀の一場面で使用されたと推定することができる。農具である鍬を転用している点を考慮するなら、その祭祀は農耕に関連するものであった可能性が考えられる。
【引用・参考文献】
石野博信(編) 2005『大和・纒向遺跡』 学生社